「検査数増やすかどうか」問題
新型コロナウイルスの発生からしばらくの間、2月、3月の日本の話題は「感染疑いのある人、ない人問わず検査の数を増やすべきかどうか」でした。
3月下旬からの爆発的な患者数の増加、そして緊急事態宣言の発令に伴い少し収まりましたが、「熱があるのに検査を受けられない」というような真偽不明のニュースはいまでもSNSに上がることがあります。
また、民間の高いニーズに対して、診断キットを売り出そうとする動きもあります。 直近では、楽天が企業向け診断キットを売り出しました。
自宅にいる人が増えているからか、この間さまざまな意見が飛び交いました。どちらが優勢かを論じても仕方がありませんが、一方で、2月当初から今に至るまで、検査問題についての議論はあまり本質的なものではありませんでした。
突き詰めて考えると、その理由は、「その先の行動を前提に置かないまま意思決定に係る議論をしている」からだと考えています。
結果として、さまざまな施策の意図が明確にならず、また、先行きに関しても不透明になっています。さらに、「オリンピック開催のために検査数を抑えている」など、さまざまな陰謀論すら生み出すことになったと考えています。 現在の状況はただ1つしかありません。
「検査した後どうするのか」行動についての議論
検査はあくまで検査であり、陽性になったら回復するわけではありません。 また、政府側の行動は「医療崩壊を防ぐ」の線で一貫していました。
一方、検査数を増やす側については、医療崩壊を防止する側面からの観点はほぼ提示されず、まずは状況を把握するための検査、という観点が強調されていました。
他方で、政府側の説明不足の問題もありました。つまり、「医療崩壊を防ぐために検査数を抑える」のであれば、通常の医療レベルを崩壊しないレベルに維持したうえで、新型ウイルスに対応するキャパシティがどの程度あるのかということをある程度明確に伝達すべきであったと考えます。
現在医療従事者がどれだけ困難な状況に置かれているかについては、断片的な情報でなく、全体としてとらえる必要があります。これについて考えると、「検査した後どうするのか」についての認識が不十分であるのは、批判する側だけでなく、賛同する側も同じであり、いまも十分な回答を得られていないと考えています。意思決定の際にその先の行動を踏まえる習慣がないために、結果として情報発信も不十分になるのではないでしょうか。
他人の行動を「意志決定する」ということ
そもそも意志決定とはなんでしょうか。どちらも現実である事実と結果のちょうど中間にあるものです。 通常は事実から情報を収集し、その先の結果につながるような行動についての意思を決定します。
(現実)事実 ⇒ 情報 ⇒ 意思決定 ⇒ 行動 ⇒ 結果(現実)
重要なことは、意思決定、情報、行動は直接現実と結びついていないということです。 都合よく切り取った情報をもとに、結果を考えずに行動を決めることは誰でもできます。 他方で、行動は現実に対して行うものなので、意思決定の際に含まれなかった現実にも対応する必要があります。
このことは個人の日常のレベルではあまり意識されません。現実に基づかない意思決定をして困るのは自分だからであり、現実を良く知ったうえで行動するのは、痛い目に合わないためにむしろ当然です。また、他人の意見も参考にしつつ、自分がいちばんよく知っている情報をもとに判断することが多いでしょう。
一方、意思決定の主体と行動の主体が別である場合、この弊害はたちまち現れます。 「ジンギスカン作戦」の例があまりにも有名ですが、現実を少しでも知っていれば発想しないような行動を決めて、結果が出ないのは行動する人のせいにする、というのは、日本だけでなく世界のどこでも、平時・非常時問わずごく普通に起きていることです。
意思決定者の倫理とか良識とかの話はありますが、究極的には意思決定者と行動者が別だから起きる問題です。いくら現場のことを考えて意思決定しているといっても、事実から汲み上げられる情報が少なかったり、偏っていては独善に陥るのみです。その場合でも、現実によるきびしい罰を受けるのは行動する側であり、意思決定者にできるのは結果責任の共有までです。
医療リソースはなぜ議論の中心にならなかったのか
今回の件では、意思決定者は医療関係者以外の国民または行政、行動する側は医療従事者です。そして、新型ウイルス禍がない状態での医療リソースは、それに基づいていろいろな施策が出ている以上、基本的に見積可能なはずです。もし妥当な見積りがあれば、それを中心に立論することも可能なはずであり、その情報をもっとも持っているのは行政側である以上、「検査数を大幅に増やすべき派」を論駁するのは簡単であったと考えます。
意思決定の際、その先にある行動を詳細に把握できているかどうかは、意思決定の質を高めるのみならず、決定システムが強圧的、独善的でないかを判断するうえで重要なことであると考えています。
一方で、これは行政側もそうですが、マスコミや識者など、決定システムと無関係の側から出る意見においてむしろ弊害が大きいかもしれません。意思決定の質や行動の妥当性を問わず、なんでも責任問題にすり替えて議論する習慣が定着してしまうと問題があります。真偽不明の情報がSNS等で拡散される環境であればなおさらです。
現実的な医療現場リソースについて論じている人々はネットの世界にも多くいます。一方で、結果としてそれが議論の中心にならなかったことは、非常事態におけるいまの日本の意思決定システムに不安を感じる点です。
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